ミチコのブログ
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  2006年 4月 10日 (月)

努力と足跡


努力の話。
某国立大のY先生から 少し前に努力についてメールが来ました。

・・・・・・・・・・・

> 報われる、と 実る の 違いって何?
目的は、例えば、フィギュアスケートで金メダルをとること。
努力目標を、6回転ジャンプに置いて、練習をする。
練習の結果、目標を達成できた。
実れば、金メダル獲得。
でも、ライバルもいるし、エラーもあり得るので、実らないこともある。
しかしながら、その努力は自分の地力になり、ひたむきな練習態度を
ちゃんと見ている人もいる。神さまも見ているかもしれない。
いつか誰かが金メダルとは違う形で、評価してくれること=報われる。
第一、一生懸命やれば、自分でも納得できる。
自分を含めて誰かが、自分の真価を評価してくれるとき、
そこには必ず努力があったはず。
その努力が報われた結果が今の自分。
でも、ダメだよ、はじめから報われたり実ったりを期待しては。
特に、医療従事者は。

・・・・・・・・
と言う内容でした。


ガボンで頑張っていたシュバイツァー先生の足元にも
及ばない 及びっこない私だけど
それでもね 私自身も 例えば医療過疎地や途上国、
世間から 見通しが悪くなっていたり
制度や何やかやの隙間にはまってしまい
伸ばした手が どこにも届かなくなってしまっている、
そんな所で頑張り続けていた先生方のつけてくれた足跡が
消えないように 次の人が迷わないように 歩いていました。
続いてくれる人が現れますようにと祈っていました。


でも 使命感とか手応えとか 熱いものにつき動かされたわけじゃなく
ただ 都会よりも のんびりした地方が好きで
自分が息をしやすいことをしていたら
こういう生活になっていただけなんだけど。

でもね やっぱり 心のどこかで
誰かが続いて欲しい、って願っていた、切実に。
そういう隙間に 手を差し入れることを躊躇しない、
そんな若い人が続いて欲しいって。


前任地は不便は不便だったけど
前々任地よりも 都市部との距離は遠いけれど
ローソンもセブンイレブンもない町だったけど
普通の生活においては オホーツク沿岸の町の方が便利で
診療所も 細かな難点はあるものの
スタッフも 患者さんも気持ちの温かい人達ばかりで
ちらっとね、四月からの勤務が決まってなかったなら
このままでもいいかなぁって思った瞬間もあったの。


海外もね・・・南の島へ派遣されたときは そこは
河から直接、引いている水道からは おたまじゃくしも葉っぱも出てくるし 
雨が降ると泥水のシャワーで 当然 お湯は贅沢品で。
飲み水は雨を貯めて ボウフラが生き生きとしているから
雨水タンクは下に穴を開けて・・・
ローカルの人達はお刺身が食べたいでしょ?と 煌びやかな
ちっちゃな熱帯魚をそのまま お皿に出してくれるし・・・
・・・ええ、熱帯魚、ちゃんと頂きました・・・
私が飼い始めた犬を食べたいとねだるし
仕事は みな、ローカル時間でスタッフは
来ないし帰るし・・・船が来なくて飛行機も降りれられない天気が続いた時、
食料もパンの実やタロイモ、クッキングバナナだけ、という一ヶ月余りを過ごしたのですが
ちっとも痩せないし・・・
やっとやっとの帰国の際は公用パスポートが偽造なんじゃないかと日本人扱いしてくれなくて・・・
成田で最後まで残されて その日の東京の友人たちが開いてくれた帰国祝いのお店では 
ニューハーフと間違われるし・・・

ODA関連の事前調査で行かせてもらったミャンマーでは
道なき道を走って 医療施設の調査だったんだけど
反政府軍のキャンプ近くでは 宿泊先で部屋の外から鍵を掛けられ
外出禁止を強制されたり
ファックスや電話も政府の許可が必要で 当然、ネットへの接続も不可。
でも ローカルの人達は そんなこととは無関係に
生きていくことに精一杯でね、行く町行く町で
自分のこと、反省ばかりしていました。
同行していた専門家の方々との毎日も色んな栄養になりました。


NGOでのベトナムの奥地での診療は 初めて行った時、
ペルーのあの大使館占領事件と重なり
同発だった カンボジア隊は 早々に撤退したんだけど
ベトナム隊は 船が来なきゃ動きようもなくて
機関銃を持った軍の人達が護衛してくれたけど
その地域の人達も ミャンマーのように 世の中の動きとは無関係に
農作業をしたり お魚を取ったり 生きていたの。

日本の過疎地も同じ。
日本の地方の方が政治とかに敏感だけど
やっぱり その地域に生きている人達は
世の中のことよりも 毎日を
ちゃんと精一杯 生きてる。

そんな中で 医療従事者として
医療従事者だからこそ 味わえる感動をね、
後に続くだろう人達に知って欲しいと思っていました。
何ものにも代え難い大切なものをたくさん、
貰えちゃうことを知って欲しいと思ってました。

だから休みたかったのに 先までの約半年。
ほとんど最北の町までヘルプに行きました。
それが 私の出来る、すべき努力だったからです。


日曜の夜、そのヘルプしていた診療所の後任が突然、辞退しました。
そして 今週 水曜の夜、車の中で
炭をたいて 死んでいる診療所の事務長が発見されました。
土曜日が告別式でした。
ここから600キロを往復して1200キロ 夜の会合に間に合うようには
戻れないので 行けませんでした。
診療所は閉めたまま。
アポイントの入っていた患者さんたちは宙に浮いたまま。


努力らしい努力を私はしていなかったのだなぁと・・・
報われることも実ることもなく
最悪の事態に陥りました。

何に腹を立てればいいのか、
何を悲しめばいいのか、
許すって 何を許せばいいのか、

そこで働いていたスタッフ達の生活も
事務長の家族のこれからも
患者さんたちも
何もかもが 放り出されたままです。
なのに 不安でいっぱいなはずのスタッフたちは
私を気遣い 励ましてくれました・・・
私が 彼女たちや患者さんたちを気遣い励まさなければならなかったのに。


私は そこにまた舞い戻り
ヘルプするわけにもいかず
今は ここを守っていかなきゃいけないし・・・


きつい一週間でした。

ささくれだって ぴりぴりしていた神経をなだめすかし
秘めることしか出来ない ベクトルの定まらない怒りを抱え
自分の不甲斐なさや 
そんな諸々がまとわりついたまま 新しい場所での勤務が開始していました。




強くなりたい、
凛としていたい、
諦めちゃいけない、
そう 強く強く願う四月 今年の春です。







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